市川の梨、市川の苺、市川の桃、市川のリス。
新田、平田、菅野一帯は砂質壌土で、苺、桃、梨など果樹、果英類の栽培に適していた。
菅野の地は桃林が点々とし春の桃花観望のため東京から多くの人を集めたという。
出典:『続・市川まちかど博物館』(いちかわ・まち研究会編、1999年)
市川市のフルーツと言えば、現在では梨が有名ですが、かつては苺や桃の生産も盛んだったようです。桃に至っては、その花を見るために東京からの観光客が多数訪れるほど人気を博したということです。
と、何の前触れもなく、冒頭から引用で始まりましたが、今回は市川の過去/過去の市川について少しだけ書いてみようと思います。
上図における「リス」というのは、かつて宮久保白幡神社にリスが棲んでいた、という話から(情報源は『市川風土記 : 市民の郷土史読本』、市川ジャーナル編集部編、1974年)。
先日、!ka !ch!kawa でも、このことを話しました。
「あの頃の市川」ということに関連して、明治41年(1908年)につくられた歌を紹介します。
下記は、『千葉県一周唱歌』という歌の、市川市に関する箇所です。
市川駅のかなたには
音に聞ゆる鴻の台(国府台)
北条、里見の古戦場
今は国守(くにも)る野砲兵
栄門高く固めたり
線路に近き桃林
梨の畠も実を結ぶ
その収穫を思い遣り
八幡の森も知らなくに
西よりたなびく塩竃(しおがま)の
烟(けむり)は何処(いずこ)行徳の
里を遥(はるか)に眺めつつ
日蓮宗な檀林と
世に聞こえたる中山の
法華経寺も早や過ぎて
出典:『市川風土記 : 市民の郷土史読本』(市川ジャーナル編集部編、1974年)
歌の中に登場する市川駅は、歌がつくられる14年前の1894年(明治27年)に総武鉄道(現在のJR総武線)の起点駅として開業しています。この総武鉄道の沿線には桃の林があった、ということですね。梨畠も登場します。
国府台は、戦国時代の「国府台合戦」(北条氏と里見氏などの合戦。1538年の第一次合戦、1563年から1564年の第二次合戦から成る)の舞台として知られ、1885年(明治18年)には陸軍教導団が置かれました。その後、終戦までの間、軍隊の町として発展しました(「野砲兵」は「野戦重砲第七連隊」のことでしょう)。松戸街道沿いには、軍隊相手の商売を営む店が多かったとのことです。
他にも、八幡の藪知らず、行徳(塩竃)、中山(法華経寺)が歌われています。
現在、市川市では、梨の生産は盛んですが、大野地区では梨の生産者が減少しており、苺を生産する農家は少しが残る程度だと思われます。桃の林はなく、行徳の塩田もありません。宮久保のリスも、もういません。
変わりゆく市川の景観、消失する自然を思いながら、ストリート・ムシャリストは、今日も何かをムシャっています。むろん、ストリートで!
参考文献:
『続・市川まちかど博物館』(いちかわ・まち研究会編、1999年)
『市川風土記 : 市民の郷土史読本』(市川ジャーナル編集部編、1974年)
『三井住友トラスト不動産Webサイト』 https://smtrc.jp/town-archives/city/ichikawa/p07.html
『猫の足あと』 https://tesshow.jp/chiba/ichikawa/shrine_miyakbo_shirahata.html